点鐘 藤井会長
ソング 手に手つないで
ゲスト 長野冬期パラリンピック銀メダリスト 野沢 英二さん
オブザーバー なし
ヴィジター(敬称略) なし
本日の出席率 20名中15名 75%
10月12日分確定出席率 20名中19名 95%
メーキャップ(敬称略) なし
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誕生祝 米谷恵司さん(10月29日生) |
ニコニコBOX 15名 9,500円
<ニコニコのコメント>
・ 野沢さん、早朝卓話ありがとうございます。(全員)
・ 米谷さん、誕生日おめでとうございます(全員)
・ 最終戦、優勝 小島さん、準優勝 細井さん、1位 平川百合子さんでした。次期会長は細井さんです。幹事は未定です。(ゴルフ愛好会)
藤井会長から地区大会での大会決議の報告がなされました。
・ 地区より、ロータリーレートのお知らせ。
11月は1ドル=80円(変更なし)
・ 地区より、地区大会開催のお礼状。
・ 2011-12年度第2830地区決算報告書について。
・ 2012-13年度R財団グローバル補助金奨学生募集案内。
・ 地区大会決議文について。
卓話 「メダルの裏話」 長野パラリンピック銀メダリスト 野沢 英二さん |
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おはようございます。今年はロンドンオリンピックが有りました。あまり知られていない競技でのメダルが取れたのを見て、98年長野のバイアスロン競技で銀メダルを取ったときのことが思い出されてきます。
昭和54年10月31日自損事故で怪我をしたとき脊髄を損傷し下半身が感じない状態です。私には3人の子供がありましたので奮起し今の状態になりました。立ち上がって向かっていった先はできないはずのスポーツ、車いすマラソンに自分一人でチャレンジして行きましたところ、国内を代表する選手になっていきましてインドネシアのフェスピック大会これが一般の人で言うアジア大会なのですが5種目中5種目のメダルを獲得しました。
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その年の12月に皇族の接見のご招待を受けたのですが、なにか体の状態が悪く病院に行ったところ、胃潰瘍と診断され翌年(昭和62年)に手術したところ胃ガンでしたので、抗ガン剤治療をずっと続けてきましたが、もう一度世界大会に行けるレベルまで取り戻そうとがんばりました時は子供と一緒にランニングを教えながらトレーニングしました。
子供が成長し一段と足が早くなり、他の子供達も教えてほしいと来るようになり、私も徐々に回復しハーフーマラソンにチャレンジし、いつしか国内で3年連続トップになるまでになりました。そんなとき日本障害者スポーツ協会から長野で開催する冬季パラリンピックに誘いを受けました。
車いすになってからスキーなどしたことがなかったし、増して滑り降りてくるチェアスキーでなく、クロスカントリーのシットスキー、国内で初めて行われる競技でした、特にバイアスロンは。
どのような滑り方をするのかも全く知らされすれず、ただ「出てみないか」
それだけでしたし、シットスキーについての情報が全く来なかったんです、「だだ溝の中を滑るんだ」としか教えてくれないんです。
仕方ないのでバスケット用の車いすにスキーを自作で取り付けました、それを持って長野県の大会に行ったときに会場には長野県が用意したノルウェーから取り寄せたシットスキーがありましたが、根性で作った自作スキーで5Kmで1位を取りました。
滑り方そのものは分かりませんが体のバランス等は身に付いていったのでしょう、ただ下りでスピードが出てカーブできなくなったら転べばいいと思っていましたから・・・
周りから”早いなー”と言われましたがこっちは”怖いなー”と思っていました、なにせブレーキの掛け方が解らなかったのですら・・・
その後選出された選手で合宿をするのですが2年3年と経つうちに長野に行ってプレ大会で滑ると言うときまでコーチが居なかったんです、プレ大会の時に初めて外国のメダリストと滑ってのですが、全然ストックのこぎ方が違ってんです日本人の場合ははんこを押したようにしかなりませんが彼らは畑を鍬で起こしたようになるのです。
そのパワーにはびっくりしました。
その時、彼らの技術、パワーを少しでも見て盗み取ろうと必死で付いていきました。
その後、スウェーデンでワールドカップ挑戦したんです。
世界一のスウェーデンやノルウェーの選手が丁度目の前を通過していった時あの選手に付いていったら何とかなるだろうと行ったのですが下りのカーブで転倒し藪の中につっこみどうしても抜け出せないときに遠方から人が来たのでHERPして貰ったのですがその時の負傷はすごかったです。
初めて外国の病院に行きました。
その後バイアスロンと10Kmには出て3位に入りグラスを頂きましたが、未だに使い方が解りません。
それからはパワーを付けるために必死に練習しました。
最終的にプレッシャーはプレッシャーでした。
だんだん近づいてくるとプレッシャーが恐怖になってきました、このまま帰れないと言う恐怖がどんどん膨らんできたのですが、長野の試合会場に入った瞬間に開き直り楽しもうという気持ちに切り替えました。
そして次の日1998年3月5日、長野の市内に選手村はあったのですが・・野沢温泉・・・良いでしょう・・
監督やコーチは先発の選手のために会場に先に行っていて、そろそろこちらの出発の時間だと言うことで携帯電話に連絡をくれたらしいのですが、私は競技にゆくのに携帯電話は要らないだろうと置いて行ってしまったんです。又当日は会場まで天皇陛下がいらっしゃると言うことで検問があり時間がかかり、付いたときにコーチの言いぐさに腹を立ててみたり興奮状態の中、ウォーミングアップをしようとスキーを見たらワックスがかけられていない、カーッと来てイライラして怒鳴りつけながらワックスを掛けて貰い仕上がってきたときにはアップする時間が、すでに無くそこで待機するしか有りませんでした。
ただ、スタートのポジションが前の方でなくて良かった、30秒ごとにスタートする前走者を見ているうちに緊張も何もなくなり開き直って、むしろカーッとなったおかげで冷静になることができました。
スタートして次の人のスタートの合図が聞こえた時の自分の位置から、これはいけるなと思いました。
規定の登りやS字も転ばずに抜け結構な人数の選手を抜いてシューティングしてまず1周目、全部で3周し1周ごとに5発打ち、一発外れるごとに1分加算というルールですが、その結果1周目でだいぶ順番があがっていったらしいのですが、監督やコーチが2周目になったときには応援が今までにない叫びだったんです。
「もう一人抜けばメダルだぞー」と叫んでいるのですがメダルは欲しいので必死で前の選手に追いついてもう少しなのですが抜けば銅メダルだと思っていましたから、頑張ったのですが抜けないままゴールしてすぐにインタビューされて「イヤー残念ですねでもここまでやりました」と言われ、それから掲示板を見たときに自分の名前が2番目にあったのを見たときはビックリしました、それからあの怒鳴られていたコーチが泣いて抱きついてきたときには本当にビックリしました。私の場合は興奮してたおかげで、レースを組み立てたりしてどうしようかなどと不安に思うこともなく冷静にスタートできた事でメダルに届いたんだと思います。
次の年のソルトレイクに向けての選手の選考会の時に私の年齢は50歳、未だにシットスキーのバイアスロンでメダルを獲得したのは私だけです。
長野の大会が終わって障害者のクロスカントリーの協会という物が無かったのでその時のメンバーでスポーツ協会を立ち上げて、若手の育成にも取り組んでいたのですが、それから2年後今度はくも膜下出血で倒れましたが、今こうして後遺症もなく子供達の指導も出来ています。気持ちの上ではとにかく前向き、自分の立ち上げ、妥協をしなかったことが現在に至っています。表向きは良い事ばかりか語れると言う事はとても幸せですが、裏では様々な事があってメダルにつながっています。
ありがとうございました。
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